だからなんだというのか?

沖縄住民の集団自決の問題に関して「とにかく命令はしていない」と主張して勝ち誇っている人をたまに見かける。


ごく普通の一般人が第三者に「死ね」と口にした(=命令)だけでその人が命令に従うということはありえない。「命令」が問題なのは背後にその「強制力」が存在するケースなのだ。「死ね(死になさい)とは言わなかった」から「命令はしていない」。仮にそうだとしよう。なるほど。だからなんだというのか?


歴史家が明らかにしてきたのは「死ねと口にしたか否か・実際に言ったか言わないか」という「いわばどうでもいい部分」ではなく、なぜ沖縄の住民が自決をしなければならなかったのか、その背後にはどのような力が存在して彼らを「自決やむなし」の心境に追い込んだのか、というまさにその「強制力」の解明だった。そして「その強制力はまさに日本軍が生み出したものに他ならない」というのが彼ら歴史家の、そして動かしがたい結論であり、言わば「核心」なのである。


「死ねとは言っていない」論は、ヤクザの親玉が法廷で「(実行犯に)やれとは言っていない」という言い訳をしている様によく似ている。それを形式上のみで認めてしまうとオウムの麻原の「サリンを撒けとは言っていない」とか金正日の「拉致しろとは言っていない(さらに実行犯は処罰済み!)」とかまで肯定しなければならず、色々と不都合であるような気もするのだが。