日本と韓国の間には具体的な取引は存在しない。

簡単に反論しておく。
http://d.hatena.ne.jp/nomore21/20070406/1175824901#c1176254978

石原信雄氏はebizoh氏が引用した産経の記事で

韓国側が国家補償は要求しないかわり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もある
 「それはない。当時、両国間で(慰安婦問題に関連して)お金の問題はなかった。」

と答えている。日韓両国にお金の問題はなかったのである。五十嵐氏の発言と合わせても「全く考慮されていない」とほぼ断言していいのではないかと思う。

さて私が提起した「そもそも日本は何とバーターに河野談話を発表したのか」という問題だがこれに対しては「お金の話ではない」というのが資料から分かったことだった。日本は民間基金の設立に当たって運営資金を出し、政府主体の公共事業も用意し、そして寄附が不足であれば政府が補うとしたのである。もちろんこれはebizoh氏が指摘するように、政府の建前上は法的補償ではない。しかし実質的に政府が金を払おうとしていることに変わりはない。河野談話を検討している際に「お金の問題を最終決着させて、あとは慰安婦には韓国政府に全て請求しろというようにしてほしい」と日本が韓国政府に要求したと仮定すると、これは明らかに矛盾した話になってしまう。

ebizoh氏は「基金は道義的補償である以上、少なくともどれだけ高額になるか分からない法的国家賠償はしないという金泳三大統領から得た言質は手放していない。」

と主張するがこれも奇妙な話である。不足した分は政府が補うと決まったときには、まずどのくらい寄付金が集まるのかもどれだけの被害者にどれだけ支払うべきかも全くもって不明だったからである。「どれだけ高額になるかになるか分からない」のは女性基金も同じである。いや、民間基金が政府主導でなく、民間基金の尻拭いをしなければならないという意味では、自分の手を離れた連帯保証であり相当腹を括った話であるといえる。(政府との交渉は自らが主体となるので例えばある程度値切ることも可能だが)。

以上より日本は河野談話検討時にお金の問題を持ち出したというのは、日本が非合理的なプレイヤーであることを仮定しなければありえないといえる。

ちなみにebizoh氏は「日本が非合理的なプレイヤーだ」ということについて肯定的なようだがそれを言い出すといくらでも矛盾した信念を日本に帰属できるので、議論自体がめちゃくちゃになってしまう。日本が「お金を問題にし相手にそれを呑ませておいて、そのすぐ直後に自分からお金を支払うと言い出した」という非合理なプレイヤーという仮定は、矛盾した推論からはあらゆる命題が帰結するという論理学の常識と同じで、ナンセンスな仮定であるといわざるを得ない。