河野談話はバーターにより誕生したのか

この議論のきっかけは私の以下のコメントである。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070310#c1173675177

ちなみにあなたは軍が主体的に関与しておきながら河野洋平という一官房長官が述べた談話だけで十分だとかそれすらも見直そうという人たちについてどうお考えでしょうか。

これに対する一読者氏のレスがこれである。

私は軍が主体的に関与したとは思っていませんし、河野談話に批判的な人たちの多くも同じ考えでは?
前提とする理解があなた方と違うので、違う結論になるのがむしろ当然では?
理論的には、軍が主体的に関与したと理解した場合にも、河野談話で十分とか見直そうとかする考えも成り立ちうると思います。
それは、おそらく当時の各国の慰安婦制度と比べてより悲惨だった訳ではないという考えに基づくのでは?

裏付けのない無意味な返答である。その旨コメントするとまたしても開き直りが始まる。

裏づけはいらないでしょ?あなたがどう思いますかと私に「意見」を聞いたので、私も意見を言っただけですよ。どちらの考え方がより客観的かを争ってはいないんですから、論理的推論のみで足りるでしょう。妄想とは、客観的にありえない非現実的な想像ですから、論理的推論とは別物ですね。これも誹謗の一種だと思いますよ。私はあなたのように一方的にレッテル張りはしませんけどね。

健忘症のようである。はじめに常石氏のブログで自ら「世界一の待遇」(ちなみにこれは大変に強い主張である)と断定しておいて「論理的推論」もヘッタクレもないものである。確かに妄想と論理的推論は「別物」ではあるが「論理的推論が現実性を担保する」とでも言いたいのだろうか?何が言いたいのかよく分からない無意味なコメントである。

それと、事実や資料についてはソースを常に念頭に置くべきですが、ロジックにはソースはいりません。理論的かそうでないかのみが問題です。ヴィトゲンシュタインの著作にはほとんど引用やソースはありませんが、高く評価されていますよね。

なぜここでヴィトゲンシュタインが登場するのか全く理解に苦しむ。歴史学の議論をするのに論理的可能性のみで史料に基づかない議論をやって評価された人の例があれば教えてもらいたいものである。

さて彼のコメントに対して私は再度こうコメントした。

そもそも軍が主体的に関与し、そこにおいて人権侵害行為が発生しているのに、(公式的な)謝罪すらしない、あるいは一官房長官の談話すらなかったことにしようとするというのはどういうことかと私は思います。何も責任を取りませんと言っているに等しいと言われても仕方がない。

これに対して一読者氏は

私は首相も公式に謝罪しているという認識です。歴代首相の河野談話の継承とお詫びって、そういう意味でしょ?

条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

とコメントしてきたので私は

最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。

と答え、この議論が決着したと思ったら、そうではなかったのである。

これも誤解です。改めてません。私は最初から河野談話修正ないし撤回必要説です。先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。
国会による謝罪決議が必要と考えるのは、ホンダ議員や中韓ロビーの勝手ですが、日本には日本のやり方があり、過去の犯罪のほとんどに謝罪していない米議会や中韓勢力に指図されるいわれはないですね。
価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。

この問題で世界中から非難を浴びているのにこの人にはそれが全てホンダ氏と中韓ロビーの陰謀に見えるそうである。そのようなセンスが今回の騒動を招いたことがまるで分からないらしい。「単にあなたの価値観にも基づく主観」?そうでないから問題が大きくなってしまっているのだ。「政治」について「無知」なのはどちらなのか、そっくりお言葉をお返ししておこう。

さてそれはさておき外交信義をはじめに破ったのが韓国で、踏襲・継承する義務はもはやないというわけである。だが、本当にそうだろうか?そこでその根拠を尋ねるとこういう答えが返ってきた。

http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070301/ssk070301000.htm
強制連行の証言の裏付けが無いのに、将来の賠償請求をしないことと引き換えに、談話を出すことを決定したという石原官房副長官(当時)の証言です。

また韓国の大統領が
http://blog.livedoor.jp/f_117/archives/15366370.html
で引用されているように「賠償請求発言」をした=明らかな外交信義違反であるというわけだ。

これについての私のコメントはこうである。

さて経緯についてですが河野談話をきちんと踏襲しているのかと疑わせる与党幹部・閣僚発言を御紹介しましょう。
http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal7/react402.html
これ以降も「日本の前途と歴史教育を考える(若手)議員の会」などは河野発言を堂々と否定してきましたし、98年には中川昭一農水相の否定発言もありました。河野談話は日本の政界でどれだけの重みを持っていたのか、持たされていたのか。外交信義違反というなら10年以上も前に為された談話を与党・政府内に浸透させることがなぜ日本側でネグレクトされ続けたのかも問われなければならないと思いますがいかがでしょうか。実際にこういうことが続いたので世界的にも「謝罪を曖昧にする国」というイメージが定着したわけでしょう。私は日本がそれほど誠意を持って河野談話を扱ってきたとは思いませんし、一方的に相手を非難できる資格があるとは思えませんが。というかですね。ノムヒョン氏の演説以降初めて「外交信義違反だ」ということで河野談話否定論が語られ始めたというのは、時系列でいっても因果関係で言ってもおかしな話だと思います。

「事実としては正しくないものをバーターの存在ゆえに仕方なく認めた」→取引の前提が破られた→河野談話は踏襲しなくてよい、という論理は成立しているのだろうか、ということだ。

これに対しての一読者氏の返答は以下。

外交信義違反かどうかでは、外交の責任者たる行政府の長の発言こそが問題です。責任負わない人が何言っても、反対派議員や閣僚の不規則発言というだけ。

なるほど、首相だけが外交信義を成立させるに当たっての当事者となりえ、それ以外の発言は不規則発言だと。
まあ仮に今この主張を認めておこう。
だが石原信雄氏はこんなことも言っているのである。

「強制性を裏づける資料は出てこなかった。証言を基に内閣の総意として判断したが、彼女たちが作り話をしているとは思えない」
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/news/20070316ddm004070085000c.html

談話の根拠は証言にあるがそれは「正しい」という認識である。つまり河野談話は「事実ではないと分かっていたが取引に応じて出した」ものではなく、日本政府が正しいと思ったものを認めて出したものなのではないだろうか?それを指摘しても彼は強弁する。

石原氏の信用性についての感想は、個人の主観ですね。
国家として事実を認めるためには裏づけや信用性が不十分だったことも、石原氏は他の場面でのインタヴュアーには繰り返し述べていますね。

「国家として事実を認めるには」というのは非常に曖昧な表現である。そもそも「国家として事実を認める」に際して「証言だけではダメ」などというルールは存在しない。このエクスキューズは「逃げ」である。またその石原氏の発言を正確に引用して欲しいと言ったところしばらくたって彼はようやく次の記事を見つけてきた。

慰安婦強制連行 河野談話は総合的判断 石原前副長官、「謝罪」の経緯語る

1997年03月09日 産経新聞 東京朝刊 社会面より全文引用

 元慰安婦への謝罪談話を発表した宮沢内閣の加藤紘一河野洋平の両官房長官官房副長官として補佐した石原信雄氏(七〇)は八日、川崎市麻生区の自宅で産経新聞のインタビューに応じ、「いくら探しても、日本側には強制連行の事実を示す資料も証言者もなく、韓国側にも通達、文書など物的なものはなかったが、総合的に判断して強制性を認めた」などと語った。
 石原氏との一問一答は次の通り。
 −−河野氏は調査の結果、強制連行の事実があったと述べているが
 「随分探したが、日本側のデータには強制連行を裏付けるものはない。慰安婦募集の文書や担当者の証言にも、強制にあたるものはなかった」
 −−一部には、政府がまだ資料を隠しているのではという疑問もある
 「私は当時、各省庁に資料提供を求め、(警察関係、米国立公文書館など)どこにでも行って(証拠を)探してこいと指示していた。薬害エイズ問題で厚生省が資料を隠していたから慰安婦問題でも、というのはとんでもない話。あるものすべてを出し、確認した。政府の名誉のために言っておきたい」
 −−ではなぜ強制性を認めたのか
 「日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つからない。加藤官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた。そして、その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めてきたので、韓国で十六人に聞き取り調査をしたところ、『明らかに本人の意思に反して連れていかれた例があるのは否定できない』と担当官から報告を受けた。十六人中、何人がそうかは言えないが、官憲の立ち会いの下、連れ去られたという例もあった。談話の文言は、河野官房長官谷野作太郎外政審議室長、田中耕太郎外政審議官(いずれも当時)らと相談して決めた」
 −−聞き取り調査の内容は公表されていないが、証言の信ぴょう性は
 「当時、外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援者らが押しかけ、泣き叫ぶようなありさまだった。冷静に真実を確認できるか心配だったが、在韓日本大使館と韓国側が話し合い、韓国側が冷静な対応の責任を持つというので、担当官を派遣した。時間をかけて面接しており当事者の供述には強制性にあたるものがあると認識している。調査内容は公表しないことを前提にヒアリングを行っており公表はできない」
 −−韓国側の要請は強かったのか
 「元慰安婦の名誉回復に相当、こだわっているのが外務省や在韓大使館を通じて分かっていた。ただ、彼女たちの話の内容はあらかじめ、多少は聞いていた。行って確認したということ。元慰安婦へのヒアリングを行うかどうか、意見調整に時間がかかったが、やはり(担当官を)韓国へ行かせると決断した。行くと決めた時点で、(強制性を認めるという)結論は、ある程度想定されていた」
 −−それが河野談話の裏付けとなったのか
 「日本側には証拠はないが、韓国の当事者はあると証言する。河野談話に『(慰安婦の募集、移送、管理などが)総じて本人たちの意思に反して行われた』とあるのは、両方の話を総体としてみれば、という意味。全体の状況から判断して、強制にあたるものはあると謝罪した。強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった。これは在韓大使館などの意見を聞き、宮沢喜一首相の了解も得てのことだ」
 −−談話の中身を事前に韓国に通告したのか
 「談話そのものではないが、趣旨は発表直前に通告した。草案段階でも、外政審議室は強制性を認めるなどの焦点については、在日韓国大使館と連絡を取り合って作っていたと思う」
 −−韓国側が国家補償は要求しないかわり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もある
 「それはない。当時、両国間で(慰安婦問題に関連して)お金の問題はなかった。今の時点で議論すれば、日本政府の立場は戦後補償は済んでいるとなる」
 −−元慰安婦の証言だけでは不十分なのでは
 「証言だけで(強制性を認めるという)結論にもっていったことへの議論があることは知っているし批判は覚悟している。決断したのだから、弁解はしない」

これは非常に興味深い記事である。「韓国側が国家補償は要求しないかわり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もある」という直球の質問に対して石原氏は「それはない」と明確に否定しているのである。「元慰安婦の証言だけでは不十分なのでは」という更なる追及に対しても「議論があることは知っている」としか答えていない。つまりこの記事は「取引」が存在したことを全く示していないのである。

仮にこの石原氏の証言を認めたとしても(繰り返すがこれは「取引」の存在した根拠としては不十分である)、一読者氏の持論によると外交信義を左右できるのは「行政府の長だけ」なのだから、所詮「官房副長官」でしかない石原氏の考えは「不規則発言」程度の重みしかないはずである。つまり一読者氏は、当時の首相である宮沢氏、または譲りに譲って最低限、談話を出した当事者たる河野氏の発言・認識を挙げなければならないはずである。また韓国の方の非公式な打診も同様である。外交信義に必要なのは行政府の長の合意なのだとすれば、その打診を行ったのが大統領クラスでなければ話にならないはずである。

ちなみにいちいち挙げないが例えば河野氏は自らの談話に関する事実認識について「正しい」という認識をそれこそ「繰り返し」披瀝していることも付け加えておく(一読者氏が「資料検索が苦手」というなら挙げてあげてもいいですが)。

まとめると現時点での結論はこうである。
「事実としては正しくないものをバーターの存在ゆえに仕方なく認めた」という事実は全く確認されていない。それどころか当事者の誰もがそれを「正しい」と認めている。

先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

「日本だけ墨守することを押し付けられている」という事実は全くない。従軍慰安婦問題について

河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

という立場を一読者氏が一貫してとっているのであれば、河野談話を踏襲することこそが「外交信義」である。