日本政府の二枚舌

個人補償についての日本政府の態度を見てみよう。

(1)日本政府が原爆被害についての補償請求権をサンフランシスコ講和条約で勝手に放棄した、と考えた原爆被害者は実は日本政府に対して求償請求の訴訟を起こしていてそれに対する判決がこれである。

対日平和条約第19条にいう『日本国民の権利』は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。

・・・イタリアほか5ヵ国との平和条約に規定されているような請求権の消滅条項およびこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、このような個人の請求権まで放棄したものとはいえない。仮にこれを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、国民の請求権はこれによって消滅しない。したがって、仮に原告等に請求権があるものとすれば、対日平和条約により放棄されたものでないから、何ら原告等が権利を侵害されたことにはならない
(1963年12月7日、東京地裁原爆訴訟判決の摘示。判例時報355号P17)

判決は日本政府の主張を全面的に認め訴えを退けた。その主張は何かというと、「サンフランシスコ講和条約で日本政府が放棄したのは国家による賠償請求権で、個人による請求権は放棄していない(そもそもそれは国家が放棄できるものではない)ので、文句があるならアメリカに言ってね」というものだった。


(2)シベリア抑留についての個人補償についての日本政府の答弁がこれである。

日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。
(平成3年3月26日、参議院内閣委員会での外務省答弁)

これも全く同じ。「個人請求権は放棄していないから文句があるならソ連に言ってね」と日本政府は主張している。


(3)対韓国については日本政府が個人補償請求権まで放棄はしていないと仄めかしていることは以前に述べたのでここでは繰り返さない。しかし日本はサンフランシスコ講和条約で韓国に対してではなく、アメリカ(連合国)に対して所有権を放棄したのだから「文句があるなら韓国に」とは言えないのだが。


戦争被害者に「個人補償請求権は国家間条約では放棄していない(出来ない)ので、文句があるなら加害国に」と一貫して主張してきた日本政府の目論見はまだ戦争の記憶が癒えない頃に国内で起きた(あるいは頻発すると予想される)「自国民からの」補償請求から逃げるためであった。


従ってこれまでの日本の「他国民からの」戦後補償裁判での戦略は基本的には「民法上の除斥期間」や「国家無答責」の法理を用いて退けようとするものだった。


しかしそれだけでは敗訴するケースが出てきた為と、戦後60年以上が経ち日本国内での補償請求訴訟が今後あまりありそうにないことを踏まえて、最近では「そもそも国家間条約で全て解決済み論」を主張し始めたのである。

平和条約14条(b)にいう『請求権の放棄』とは、日本国及び日本国民が連合国国民による国内法上の権利に基づく請求に応ずる法律上の義務が消滅したものとして、これを拒絶することができる旨が定められたものと解すべきである。
(オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件の控訴審における2001年2月27日付準備書面

ちなみに元々日本政府の主張していた「外交保護権のみ放棄論(=文句があるなら加害国に言ってね論)」については基本的には国際法の原則とはそぐわないものであり、当時もマイナーな説である(しかし近年は「国家の権利と個人の権利は別」という議論が戦争被害にあった人たちの「人権擁護」の観点から提起されている)。しかし日本政府は少数説であることを知りつつ逆手にとって強弁=「自国民」を騙し(ここにねじれがある)、そして後に都合が悪くなったら「通説」の見解を採って「他国民」を欺こうとしているのである。


日本政府の戦争責任に対するこれらの「二枚舌」を自称愛国者たちはどのように受け止めるのか、興味深いところではある(日本政府はひたすら誠意を尽くしてきたという「物語」が彼らの中では人気が高いようですがw)。